米国では名門と言われるニューヨーク大学(NYU)で、講義内容が難し過ぎるという理由で教授が解雇されるという珍事が起きました。
An NYU chemistry professor says he was fired after students complained his class was too hard.
(中略)
“They weren’t coming to class, that’s for sure, because I can count the house,” Jones added, defending himself and saying the kids simply were not studying hard enough. “They weren’t watching the videos, and they weren’t able to answer the questions.”
(Ben Kesslen. NYU chem professor says he was fired after students complained class was too hard. New York Post. October 4, 2022.)
学生の嘆願がきっかけとなったようですが、教える側と教えられる側との乖離は、講義内容やそのレベルに限らず、コロナ禍で対面コミュニケーションが減ったということもあったのかも知れません。
当の教授によるコメントがそれを物語っています。
“They weren’t coming to class, that’s for sure, because I can count the house,”
ここでの"count the house"という表現に着目したいと思います。
文脈からして、これは講義の出席者の数を数えられる(すぐに分かる)くらいに少ない、ということを言っていると分かります。
"house"を改めて辞書で引いてみると、家、議事堂という意味の他、興行が行われる劇場、音楽ホールの意味があり、そのコンテクストで、
聴衆、観衆、見物人
の意味で用いられるとあります。
つまり、興行の場所を意味する"house"が、その場所に集う人を指すようになったもので、メトニミー(換喩)の一種であると言えるかと思います。
辞書を眺めていますと、"full house"が大入り、"poor house"が不入り、をそれぞれ意味するとあり、"house"は場所であり、そこに集う人のことでもあり、またその全体を捉えたものでもあるようです。
余談ですが、小生が好きなJ. D. Salingerの短編集「ナインストーリーズ」に、"For Esmé - With Love and Squalor"という作品がありますが、その中で以下のようなくだりがあります。
She was about thirteen, with straight ash-blond hair of ear-lobe length, an exquisite forehead, and blasé eyes that, I thought, might very possibly have counted the house.
主人公が偶然立ち寄った教会でコーラスの練習風景を見学し、その中の少女のひとりに気を引かれるというところです。
また、その後の部分にも、"with those house-counting eyes of hers"というくだりがあります。このような表現はサリンジャーならではの言い回しといいましょうか。
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